キリストの最初の弟子 ヨハネ1:35~45
2009 年 6 月 14 日 日曜日「二人の弟子は・・・・イエスのついて行った」 ヨハネ1;37
イエスの救世主としての公生涯の開始です。この時に、あたって弟子の選任は、将来のキリストと教会を負った立つ者であって責任重大です。 »続きを読む
「二人の弟子は・・・・イエスのついて行った」 ヨハネ1;37
イエスの救世主としての公生涯の開始です。この時に、あたって弟子の選任は、将来のキリストと教会を負った立つ者であって責任重大です。 »続きを読む
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」 29節
これは、先駆者ヨハネが、集まった群衆に、この一言でイエスが如何なる方であるかを言い表しました。
まず。「見よ、世を」と。このことばだけなら、今日でも巷に溢れています。
「世を!」「見よ、世を」でも、そこは享楽街のネオンが輝いていても、悪の巣窟が見えても、人間の救いになるものを見つけ出すことは至難の業というべきでしょう。
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「このような信仰を見たことがありません」 マタイ福音書8:10
皆様は新約聖書の中でイエスに信仰を誉められた方がいる事をご存知でしょうか?今日はその中の一人ローマの百人隊長の信仰を共に考えてみたいと見たいと思います。イエスが山上の説教をし終えて、カペナウムに帰ってきたとき、ある人物がイエスのもとに来ました。 »続きを読む
「それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしは、その人のくつの ひもを解く値うちもない」。 ヨハネ1-27
彼は、他の福音書によると、らくだの毛衣を着、いなごと野蜜を食べて、荒野に住んでいました。その風貌や推してしるべし。身体強健な野人でした。徹底して都会風の虚栄や虚名に背を向けて容赦なく世の人々の堕落、不敬虔をあばき、神の審判をもって迫りました。 »続きを読む
「この方はいのちがあった。このいのちは人のひかりであった。」
ヨハネ1;4
ヨハネ流の「クリスマス」、キリストの誕生は、先週は「ことば」と、して来られたと読みました、きょうは「光」として世に来られたキリストのお話です。 なぜ、キリストの誕生が「光」の出現と表現されたのか。 »続きを読む
「細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し」
ヨハネ2:15
実は、この時エルサレムは年に一度の大きな「過越の祭」のときで、大勢の人でごった返していました。
とくに、神殿には世界中から集まる善男善女で境内は埋め尽くされていたようです。ところが、その「集まり」をあてこんで行商人が、声をからして商売に励んでいました。
ちょうど日本の祭りにも、必ず怪しげなダフ屋が集まり、神社仏閣の境内は、仮設小屋がたち並び、子供のころはそれが楽しみでした。
ところが、我らの主イエスは、その商人たちを、縄で鞭をつくって、それを振りまわしながら追い散らし始めたというのです。イエス大いに怒る!! »続きを読む
「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」
ヨハネ福音書1:14
この「ことば」が何を意味しているかは、1節で「ことば」は「神であった」と明言されています。この「ヨハネ」」に、クリスマスのマリヤも、飼い葉桶も羊飼いも、東方の博士らは登場しません。でも、この「ヨハネ」の書き出しは、彼独特のクリスマス物語だったのです。 »続きを読む
「祝福しておられるうちに、彼らを離れて天に上げられた」
ルカ24:53
連続して学んできたルカ福音書も、いよいよ最後です。閉巻です。キリストの生涯を記録した福音書はマタイ、マルコ、ヨハネとわれらがルカ福音書が残されていますが、その中で、文章も内容も一番美しいと言われてきたルカをここに終えるのですが、そのルカ福音書がどのように終わるのか、読み進んできた 私たちに気になることろでした。 »続きを読む
「罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」 ルカ24;47
イエスは復活され、多くの人々に現れて、「キリストの死よりのよみがえり」は疑いの余地のないほどに、初代教会の中に受け入れられていきました。そこで、イエスは弟子たちに、福音は「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」 ものであるち宣教命令を与えられるのです。 その、出発点を「エルサレム」からと言われたのです。
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「焼いた魚を一切れ差しあげる」 ルカ24:42
キリストが墓からよみがえられたというニュースは都中に瞬く間に広がり、話題沸騰。
ところが、キリストの弟子やクリスチャンたちの中に半信半疑、いやなかなか信じられない者たちがいたというのです。 »続きを読む