伝道者になる ヨハネ 4:27~38
2009 年 8 月 30 日 日曜日「来て、見て下さい。」 ヨハネ4:29
イエスのサマリヤ伝道のつづきです。井戸端でサマリヤの女と語り合っているところに、町に買い物にでかけていた弟子たちが帰ってきます。
今と、違って男女が外で親しく話しあうなんて考えられない時代でした。しかも、イエスが不仲なサマリヤ女と、しかも不身持ちの女と語り合っている、弟子たちが、それを知ったら腰を抜かしてしまう場面です。 »続きを読む
「来て、見て下さい。」 ヨハネ4:29
イエスのサマリヤ伝道のつづきです。井戸端でサマリヤの女と語り合っているところに、町に買い物にでかけていた弟子たちが帰ってきます。
今と、違って男女が外で親しく話しあうなんて考えられない時代でした。しかも、イエスが不仲なサマリヤ女と、しかも不身持ちの女と語り合っている、弟子たちが、それを知ったら腰を抜かしてしまう場面です。 »続きを読む
女はイエスに言った。「先生。私が渇くことのない・・・その水を私に下さい。」 ヨハネ4;15
インターネットのある若者が「こころの渇きを癒して下さい(涙)」と訴えているのをありました。そして「空腹飢餓」それとは別にある心理学者は「空心飢餓」と新語を紹介しています。
確かに、多くの人はこころの渇きを漠然と感じていることでしょう。でも、その渇きの原因がわからす、自分の欲求を満たせば癒されるだろうぐらに考えていませんか。
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イエスはサマリヤを通ってガリラヤに向かわれました。
実は、この時代ユダヤ人と隣国のサマリヤは犬と猿の仲でいがみあっていました。だから、ガリラヤ、エルサレムの往来は2倍の距離になる遠回りをしてサマリヤを通らないのが普通でした。ところが、4節に「サマリヤを通っていかなければならなかった。」と不思議な一節があります。 »続きを読む
「上からくる方は、すべてのものの上におられ・・」
ヨハネ3;31
バプテスマのヨハネは、イエス・キリストの先駆者として、イエスのことを「私より偉い方」「靴の紐を解く値うちもない方」と、徹底して謙虚で自分の分際をわきまえ知った預言者でした。それがここに来て、イエスは「上から来る方は、すべてのものの上におられ・・」まさに天から遣わされた活ける神の子であることを鮮明に告白したのでした。
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「あの方は盛んになり、私は衰えなければはりません。」 3章30節
イエスの先駆者としてイエスを世におくりだしたバプテスマのヨハネの崇高な聖書の中でも一等星の名句です。
ことの起こりは、このころ、イエスとバプテスマのヨハネは同じ地方で、群衆にたいして、悔い改めのバプテスマを授けていました。ところが、25節を見ると「イエスとバプテスマのヨハネのきよめ効果はどっちは上か。」という、セクト主義というか派閥争いの目がでかかっていたのです。 »続きを読む
「どうして、そのようなこと(新しく生まれ変わる)がありうるでしょうか。」
ヨハネ 3;9
先週の続きですが、老練の宗教の指導者であるはずのニコデモが戸惑っています。「新しく生まれかわらなければ・・・。」と、イエスにいわれて。
日本にもたくさんの宗教がありますが、「生まれ変わらなければ・・・。」という宗教は聞いたことがありません。 »続きを読む
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはことはできません」 ヨハネ3;3
ニコデモという人物の登場です。彼は、夜イエスの元にやってきたという。
なぜ、夜か。彼が、イエスを敵対視するパリサイ派に属していたことと関係がありそうです。さきほど、イエスは「宮潔め」で、神殿の境内で、神聖さが汚されていることに激怒して、悪徳商人を神殿から追い出されました。ところが、それを、金を受け取って容認していた神殿管理者と激しく対立しました。この神殿管理者こそパリサイ派の連中がしめていたのです。 »続きを読む
「どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか」 ヨハネ2:18
イエスは、エルサレムの神殿で荒縄で鞭を作り、それを振り上げ、悪徳商人たちを追い出されました。神殿のことを、イエスは「わが父の家」と言われました。そのなかで、世界各地から集まる「過越の祭り」への参拝者を相手に、あくどい商売をしていたようです。そこで、怒れるイエスを見てきました。
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世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた」 ヨハネ2;9
ここには、「カナの婚礼」においてなされた、イエスの最初の奇蹟が記されています。すなわち、イエスは水を上等のぶどう酒に一瞬にして」変られたというのです。 聖書には「奇蹟」はたくさん録されています。それで、人は「キリストの教えは立派で、だれも文句のつけようがない。でも、この科学の時代に、水をぶどう酒に・・・・・」とは、信じられない、と、聖書を閉じてしまうか、 »続きを読む
私たちは、物であれ人であれ、失って初めてその大切さを気付くことがあります。ルカ15章11節からの放蕩息子の喩えは、その典型的な例といえましょう。弟は財を失って、はじめて人の世のつめたさと、父(神)と一緒にいたときの幸せに気付いたのでしたが、兄の方はまだこの父(神)と共にいることの素晴らしさに気付いていないのです。 »続きを読む