2009 年 9 月 5 日 土曜日
「主よ、主よ、と言う者がみな天の御国にはいるのではない」
<マタイ 七 ・21>。
武田信玄は言ったものでした。「負けるはずのない戦きを負け、滅びるはずのない家が滅びると、ひとびとはみな天命だ、運命だと言って片づける。しかし、私は天命だなどとは思わない。みなヤリカタが悪いからだと考える」と。
また、兵法についても合理的で、「小さな備えをよくよく工夫して立てる。そうすれば、大きな備えがやりやすい。万事は小さなことから始め、次第次第に組み立てて、大に及ぼすようにせよ。大より小へは、やりにくい」としました。
そのくせ、いざという時には「五分勝ちをもって上の勝利とし、七分も勝つのは中の勝利、十分勝ってしまうのは下の勝利だ」
なぜ?と聞かれて、信玄は答えて曰く。 「五分の勝利にとどめておけば励みが生ずる。七分も勝つと怠りが生ずる。十分に勝ってしまおうものなら、一番おそろしいおごりが生じてしまうものだ」と。
こうして、信玄は常に六、七分の勝ちを越さず、好敵手の上杉謙信をして「この点、自分は信玄に及ばない」と感嘆させました。
無責任な敗北主義者や、功名手にはやって有頂天になり、一番肝腎な謙遜を失っては高転びする張子の虎には、妙薬の佳話です。
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2009 年 9 月 5 日 土曜日
ある時、宇喜田秀家の夫人がモノノケにとりつかれたとかで、・狂気したことがありました。老狐のしわざだということでした。
それを聞いた秀吉は、さっそく手紙をしたためると、稲荷(いなり)神社に呈しました。その文面が、まことにふるっていました。
「このたび、宇喜田の女につきまとうたモノノケは狐のしわざとのことでござる。なにがゆえに、かかることをいたすのでござるか。ふとどき千万でござるが、このたびだけは格別見のがすことにいたそう。
されども、なおこの上ふとときをなしつづける場合には、毎年、日本国中に狐狩りを命じ、津々浦々の狐という狐を狩り尽くす所存でござる。わが天下にある人も獣も、わが輩の意を重んぜざるべからず。すみやかに狐のしわざを止むべし。 委細は神官に仰せつけたるとおり」
と。
ここにおいてか、宇喜田夫人の邪気は去ったという話です。
ごしょうちの通り、稲荷の使いが狐であるところから出た秀吉- 流の愉快なやりかたで、思わず失笑してしまいます。
おどすのに、日本国中の狐狩りをもってしたというところなど、いかにも秀吉らしい大傑作でした。
ありもしない俗信を退治するのも、こんなふうにやると、二倍の
効果があるかも知れません。
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2009 年 9 月 5 日 土曜日
容貌魁偉(かいい)、人となり胆略あり、と評きれた伊達政宗はあるとき秘蔵の名物茶碗を手にとって見ようとして、あやうく落としかけました。そのため、冷や汗びっしょりでした。
やがて落ちつくと、彼は思いました「いまだかつて驚いたことのなかった天下の豪の者が、云ってみればただの土くれごときに、心を奪われ、驚きあわてたとは何たことか」と。そして、いきなり名物茶碗をひっつかむと、庭石に叩きつけて、粉ミジンに砕いてしまいました。
誰にでも、「これだけは・…」というものがあります。そして、それが新しい生命に踏み切るのをためらわせ、不自然な緊張を与え、道をゆがめ、生きかたをみにくくしています。それを捨て去ってしまえは、どれほどセイセイして活歩できるかも知れないのに。
福沢諭吉の少年時代のこと。親戚に使いして、ごぼうびにいただいたマンジュウ三つ、ふところに入れて帰るうち、一つが転がり出て、道に落ちてしまいました。
どうしようもなく、そのまま帰りを急ぎましたが、道々、一つ失ったことが残念で、くやしく、心はそのことでムシャクシャするばかり。
やがて橋にかかった諭吉少年は何を思ったか、あとの二つをふところから取り出すや、いきなり、二つとも勢いよく川の中へ投げ込んでしまいました。
なまじ、三つのうちの一つを失ったというから、イジイジするので、全部を、それも自分から投げ捨ててしまえば、何の残念もなくサッパリしたのでした。
「あなたは、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、わたしについて来なさい」。
と、主イエスは云われました<ルカによる福音審十八章22節>。
後生大事にしているものも、よくよくあらためてみれば、なんのことはない、ただの土くれでしかないことが多いものです。
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2009 年 9 月 5 日 土曜日
竹中半兵衛と云えば、秀吉に仕えた智謀の名将ですが、座す時はいつも足の指を交互に動かし、.寒中には手をこすっていました。
主君の前に出る時も向じでした。いやしくも主人の前で、逸楽のために手足を自由にするのは、はなはだ無礼と云われるかも知れない。
けれども、士たる者は多少作法からはずれても、手足がなえたりしびれたりして、いざという時の用にたたないことのないよう心がけておくのだ、と申しました。
また、息子の左京に軍談を語り聞かせていると、まだ幼い左京が座を立って、どこかへ行き、暫くして帰って来たので、なんで中座をしたのか、と叱ったところが、.左京は小便をして来ましたと答えます。
半兵衛は怒り、なぜ、この座敷で放ってしまわぬ。わが息子が軍談に聞き入り、座敷を汚したと云われることこそ、わが家の面目ではないか、と嘆じました。
また、ちかごろは刀をはずして別のところに置いたり、他人の刀と一緒くたに置くようになっているが、なんとも心がけのないことだ。
同じところに置いておけば、急の時に取り違えて間にあわぬこととなろう。少くとも、人の刀が横にに寝かしてあったならば、わが刀は立て掛けて置くとか、人の刀のあるところを避けて置くとかすべきである、と語りました。
彼は、まるで女のような容貌の持ち主で、戦いにのぞんでも、猛威なところは少しもなく、いかにもおとなしい馬にまたがっては、静まりかえっていました。ために、人々は戦わずして、すでに勝っているような気がしたとのことです。これもさきのような平常細密な心がけあってのことで次の聖書の一節の他山の石となりましょ
う。「小さい事に忠実な人は、大きい革にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」<ルカ一六、・一〇>、
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2009 年 9 月 5 日 土曜日
ある年の八月末、秀吉は東山の松タケが見事だと聞いたので、近日、松タケ狩りに行くことにしました。 家来は、さっそく付近一帯の松タケをとらせないよう手配しましたが、すでに京の者たちが取ったあとで、残り少なになっていました。
そこで、あわてた家来たちは諸方から取り寄せた松タケを一夜のうちに植えつけておきました。 さて、秀吉は女房どもを引き連れて、松タケ狩りに打ち興じました。しかし、女房の一人が、実はカクカクシカジカで……と告げました。それを聞いた秀吉は笑い、「そんなことは、もうトツクに知っておるわい。だが、家来どもが苦心のほどを思えば、知らんぶりをしているのだ。だまっておれ、だまっておれ」と、いましめました。 * * * *
また、山城の山里というところを、梅松という坊主にあずけました。感激した梅松は、「あらたに松を植えましたところ、ほどなく松タケが生えましたので」と献じて来ました。秀吉は、「わが輩の威光なれば、さもありなん」と笑って受けました。しかし、その後、何回も献じて来たので、秀吉は近臣を通じて、「もはや松タケを献ずることはやめよ。生えすぎるわい」と伝えさせたとのことです。実際はよそから求めて献じていたのです。 人の善意を暖かく受け入れて興ずるこころは嬉しいもので、御霊の実の一つにも〝善意″があげられていました。
<新約聖書・ガラテヤ五・22>。
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2009 年 9 月 5 日 土曜日
ある日、退屈した秀吉はつらなる武将たちに「ひとつ大きな歌をよんえみよ。」と命じました。
面々は首をひねったり、五・七・五・・・と指を折ったり、その出来映えは次のとりでした。
富士山を枕となして寝ころべば
足は堅田浦にこそあれ
細山幽斉
日の本にはびこる程の梅の花
大地に響くうぐいすの声
福島正則
大海を酒のかわりに飲みはして
あたりの山をつまみ食いする
加藤嘉明
須弥山(しゅみせん)に腰うち
かけて世界をば呑めど咽(のんど)さわらざりけり
加藤清正
須弥に腰かけて世界を呑む人を
小指のさきではねとはしけり
曽呂利新左門
イヤハヤ大したものではありませんか。
いつまでたっても四畳半式の考えにせぐくるまり、それも次第に目の先三寸の算段にちじこまる手合いは、その近眼メガネをふっと
はきれてしまいます。
小さな、しみったれたおのれー個のことがらで、トグロを巻く者は、「世界はわが教区」と喝破したウェスレーなみのビジョンをかかげたいものです。
あのエルサレムの都だけで満足しょぅとしていた弟子たちは、
「エルサレム、ユダヤとサマリャの全土、および地の果てにま
でわたしの証人となります。」
と、主イエスに押し出されました <新約聖書・使徒1・8〉。
きょうも、祖国をあとに、海を越え、山を越えて、南に北に雄飛
している宣教師の姿を見たならば秀吉さんはなんと云うことでしょう。
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