その水を ヨハネ4:1~15
イエスはサマリヤを通ってガリラヤに向かわれました。
実は、この時代ユダヤ人と隣国のサマリヤは犬と猿の仲でいがみあっていました。だから、ガリラヤ、エルサレムの往来は2倍の距離になる遠回りをしてサマリヤを通らないのが普通でした。ところが、4節に「サマリヤを通っていかなければならなかった。」と不思議な一節があります。
そこには、一人の気の毒な女を救い出したい、との隠れた計画があったようです。7節を見ると「ひとりの女が水汲み来た」、いよいよ登場です。その時第六時ごろ、今日で言う真昼間の12時ごろを意味しています。普通の水汲み女たちは朝夕の涼しいときにやってきて楽しく井戸端談義に花を咲かせて・・・というのがパターンでした。ところが、日中の人もいない猛暑のなか一人で水を汲みにくる・・・・、なにか曰く因縁がありそうな女でした。
人と接触をさけて、こっそりと水を汲みに来る。孤独な影のある女です。
それが、イエスと対話をつづけているうちに「先生」と呼び、さらに「預言者?」そして、最後に「キリスト・救主・」と霊の目が開かれ、彼女の生き方は日陰から陽のあたる表街道に生きる女と変えられていきました。
イエスが「サマリヤをわざわざ通らなければならない」とおっしゃって理由が、この一人の無名の女の救いにあったことが改めて知らされます。しかも、この女は世間からは鼻つまみ者でした。イエスは一人の女の救いに、いがみ合い、憎しみ、民族の壁を打ち破って迫っていかれました。
はじめイエスは一人井戸端に座っていました。そこへ女が水汲みにやってきました。女の方から口をききません。イエスが「水を飲ましてほしい」と声をかけます。案の定でました。「ユダヤ人のあんたが、なぜわたしなんかに水を」剣もほろろでした。イエスは逆に「あなたがわたしを知れば、わたしはあなたに活ける水を与えることが出来るでしょう。」女も「あなたは水を汲むものを何も持っていないではありませんか。」「でも、その活ける水とやらをどこから手に入れるのですか。」女のこころが少しづつ開かれていきます。でも、イエスが霊のことを語るのに、彼女は目先に単なる水、いくら飲んでもすぐ渇くH2Oしか思いはありません。イエスは「あたしが与える水はその人の中で泉となって永遠のいのちへの水が湧き出します。」女は飛びつきます。「そんな水があれば、もうここに汲みに来なくていい。その水を下さい」と手をだした。すると突然イエスは「あなたの夫をここに連れてきなさい。」
女は何人かの男を取り替えひっかえ5人いて、いま6人目の男と同棲をしている。女の「渇き」の根元をイエスはつかれ、彼女に本当に人生の「渇き」そして救いの必要を気づかせようと、忍耐と愛情を持って迫られている姿、しかも一人のために・・・。伝道の原点を見る思いではありませんか。一本釣り伝道です。