復活はたわごとか ルカ24:1~12

「ところが使徒たちは、この話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」            ルカ24:11。
  イエスは無惨にも十字架上で死にました。どんな「聖人、賢人」の伝記物語も死をもって一巻の終わりです。
   「 生まれては死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も孔子も猫も杓子も 」 (一休) 
  このルカが録した「イエス伝」も十字架の死をもって終わりかと思えば、続きがあるのです。女たちがイエスが死んで3日目の朝早く墓に行くと、横穴式の墓で、入り口にはローマの兵卒が仕掛けた大きな石の蓋が封印までされていたはずなのに、墓はポッカリ口をあき、中は空っぽ。イエスの死体をどこを探してもなかった。イエスはよみがえられたのです。イエスは生前何度も「我はよみがえりなり、生命なり」と、また三日目によみがえられることを預言されいました。女たちは、イエスの復活を信じて、男の使徒たちにすべてを報告します。「ところが使徒たちは、この話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」復活信仰は初めから容易に受け入れられたものではありませんでした。キリストから直接訓育を受け、キリスト教会の将来を託されていたはずの使徒たちさえ「たわごと」と耳を貸さなかった事件であったのです。
 しかし、行動派のペテロは、すぐ墓に向かって飛び出して行き、女たちの報告を確認しようとします。しかし、12節「墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて帰った」。キリスト教にはイエスの遺骨はない。ところが、仏教では、釈迦の遺骨は「仏舎利」といって、世界各地に「釈迦の真骨」と恭しく葬られている。日本では名古屋市千種区城山新町の 「日泰寺仏舎利奉安塔」は有名です。
  イエスの遺体が無くなった事に、昔からいろいろな説があります。.
   まず、クリスチャンたちが盗み出して「イエスは預言通り復活した」と、でっち上げの復活信仰を作り出したというもの。もっともらしく聞こえますが、これには、初代教会のクリスチャンたちが、復活信仰を信じて拷問にあい、迫害されて殉教していること。特に、キリストの直弟子である使徒の殆どが殉教している事実。ねつ造した復活信仰に、一人でなくたくさんのクリスチャンが殉教していった事実は「クリスチャン盗難説」は、成立しないと同時に復活の事実をむしろ印象づけることになるのではありませんか。
 そのほか、おもしろ半分でローマ兵がイエスの遺体を盗んで隠した。また。イエス憎しの神殿宗教家たちが、墓からどこかに捨てたのでは、といろいろな事が言われてきました。しかし、どれも、「空っぽの墓」の説明にはなりません。初代キリスト教時代に、キリスト教は復活信仰をもとに破竹の勢いで成長発展していきます。誰かが隠し盗んだものなら、「見ろ。馬鹿ども。ここにお前たちのイエスの死体はあるではないか」と、公開すれば、それが事実なら、その瞬間にキリストの復活信仰など消えて無くなり、いや、キリストの復活なければ
キリスト教そのものも十字架の死で終わっていたはずです。
復活は「たわごと」ごときでなく、私達の死生観を変える大事件であったのです。

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