主よ。み手に ルカ23:44~49

「父よ。わが霊を御手にゆだねます」       ルカ23;42
イエスの人類の身代わりの贖い死が、今十字架上で、イエスの死によって全うされようとしています。
  三位一体の父なる神の特命を受けて、子なる神イエス・キリストは、人となって、人類の罪の咎、呪いを身代わりの受けて死ぬということは、私たちには想像を絶する悲劇的な神聖計画であったはずです。 それは、父なる神の「独り子給うほどに世を愛する」ことから始まり、その使命を全うするために、子なる神の悲壮な決意をパウロはよく理解して。、次のように述べています。「キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリピ2;8)人間の父が子を他人のために見殺しにする。これも悲劇です。それが父なる神と子なる神との間に行われたことは、私たちの理解を超えたまさに神聖悲劇であったといわざるをえません。
いよいよイエスは事を為し遂げ息を引き取らんとするときに発せられたことばが「父よ。わが霊を御手にゆだねます」でした。
  死は未知の世界への旅立ちです。私達にも、いつかは必ずやってくるその日に、私達はなんと口にするのだろうか。
  1951年にノーベル文学賞を受けた「バラバ」という作品があります。
主人公は、ユダヤの祭りにあたって特赦で釈放され、その代わりにイエスが十字架につけられたという聖書の記録があります。聖書には釈放されたのちのバラバの行動にはなんの記録もありませんが、スエーデンの作者ラーゲストヴィストは、その後の「バラバ」の生き様を書いています。
 彼は宗教とは縁遠い「殺人稼業」に明け暮れていたのでしょうが、処刑を目前にして釈放、そして自分に代わってイエスが処刑されるという事件に遭遇して、人生の不思議に神秘、宗教性を感じざるをえませんでした。そんなことで何度もクリスチャンの仲間に入ろうとするが、彼の世俗性が宗教の世界を拒んでしまう。そんな時、ローマに大火が起こり噂によればクリスチャンが放火したとのデマが飛び交い、それを信じてバラバはクリスチャンになろうとして、ほんとうに放火してまわる。そして逮捕。投獄、そこには多くのクリスチャンたちが、すでに投獄されていた。そこでバラバはクリスチャンが放火犯でないことを知り、かえってクリスチャンからも責められるはめになる。
  クリスチャンになろうとしてなれないバラバ、この男の生き様に現代人の信仰観を見出し、それがノーベル賞の理由に挙げられていました。
 宗教にこころ惹かれながら、素直に神の懐に飛び込めない現代人。
結局、彼は十字架上で処刑されるとき、最期の言葉は、暗闇に向かって「俺の魂を委ねるよ」としか言えなかった。小説はそこで終わっている。 
  イエスは「父よ(神よ」わが霊を御手に委ねます」と。私達もそんな最期でありたいと心がけたいものです。

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