無謀裁判 ルカ22:65~71
「イエスをからかい、むちでたたいた。」ルカ22:63
イエスを捕縛した宗教屋どもは、イエスの純粋で正義の宗教を、彼らの利権を脅かすもとして、いつの日か殺してしまいたいと、機会を狙ってきた。ついに、その時が来ました。
イエスは夜、捕まり、でも当時ローマの支配下にあり、彼らには死刑裁定権はありませんでした。だから、夜が明けるまで待たねばなりません。そこで、暴徒と化した宗教家どもは手持ちぶたさ、退屈しのぎに、あらゆる乱暴狼藉でイエスをなぶり者にする。目も当てられない光景が録されています。映画「パッション」に描かれた世界が実際に行われたのです。鞭でうたれ、痙攣して倒れる神の子の身体。また、イエスに目隠しをして、後ろからイエスを叩いて「神の子なら、今叩いたのだれか、わかるだろう。」 しかし、イエスは沈黙。
イエスの十字架の受難は誰も知っている。しかし、その苦しみは十字架上の数時間ではなかった。一晩中の辱め、暴力を含め、いやさらに、その生涯も「ねぐらもなく、枕するところもなく」、罪人の救い主として苦難の生涯を送られた。さらに、誕生が獣小屋から始まったとなれば、イエスの生涯は誕生から死に至るまでが、まさに、苦難の連続であったのです。何のために、「罪人を救うため」「身代わりになって我らの死の刑罰を受けるため」でした。
イエスはあれほどなぶり者にされ、肉が裂けるほど鞭打たれながら
十字架で息をひきとる直前に「彼らを赦したまえ。その為すところ知らざればなり」と、かばい立てをし、彼ら狼藉者のために祈っておられる。まさに愛の人。まさに人となりたる神でした。
そんなイエスの頭を叩きながら「お前は本当にキリスト救主か」と、問う。イエスはおっしゃった「私が言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。」今日も、自ら眼や耳を閉じて、決して信じないで、イエスに限りなく侮辱を与えている人はいる。でも、キリストは・・。