祈りなさい ルカ22:39~46

「誘惑に陥らないために祈りなさい」      ルカ22;40
  イエスは、十字架の死を目前にして、弟子たちに祈るようにすすめています。そして、ご自身は「汗が血のしたたりのように落ちた」 と表現されるほど熱心に祈られたというのです。
  信仰にとって祈りは大切です。ところが、私たちは、イエスさまほど熱心に祈っているでしょうか。
 祈りなんて、弱者のすることで、現代人は神に頼らず、どんな艱難にも立ち向かっていくのだと、祈りを軽視、また恥じる人がいます。でも、そんな人でも、正月には初詣に、お盆には、お葬式には仏壇の前で手を合わせるのではないでしょうか。無神論を言うなら、信じてもいない偶像に手を合わさず、無神論を徹底すべきだはありませんか。でも、人間は、昼間は無神論者、夜は有神論者と言われるように、ひとりぽっちで 夜空を仰いで何か祈り心が自然に起こってくるものと言われています。
 宗教アンケートをとったことがありますが、神を信じていないと回答しながら、「祈って経験あり」「祈りたいと思ったことあり」と答えられたか多いのに驚いたことがあります。
 たしかに神は全知全能ですから、祈る前から私たちの必要は、すべて御存じです。でも「祈れ」とおっしゃる。祈りは、神のためではなく、実は私たちのために必要であるとおっしゃっているのです。親は幼いわが子の必要を知っているでしょう。でも、子どもからせがまれ、ねだられることによって親子のきずなが確かめられ、人格的な交わりをいっそう深めていくことができるのでしょう。親が与えてくれるからといって、何もねだらない子がいたら、かわいげがないでしょう。また、親から良い物をもらっても感謝も喜びもしない子どもいたら変ではありませんか。
  私たちが神の守られ、すべてのものを備えられ生かされていることを実感し、感謝するために、そして、神と親しい交わりのために、祈りは、むしろ、ゆるされているいうべきだと思います。
  苦しいときには誰もが祈り助けを求めたくなくなるはずです。でも、日ごろから、「無神論」とつっぱっていると、ほんとに祈りたくなり、祈る必要がおきたとき、心から祈れないというのは不幸ではありませんか。「溺れる者は。ワラをもつかむ」。ワラでは救われません。溺れていない正常なときにこそ、祈るべき神を信じて、祈ることができる人は幸いな人と言うべきでしょう。
   「誘惑に陥らないために祈りなさい」、そして、イエスの血のような汗を流すほどの熱心な祈りの模範をお互い学んでいきたいものです。

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