それで十分です ルカ22:35~38
「わたしが・・・旅に出したとき、何か足りない物はありましたか。」 ルカ22:35
十字架を目前にしてイエスは、弟子たちに幻滅しながらも、まだ彼らを見捨てることなく、ご自身がいなくなってからのことをあれこれと心配されています。
弟子たちは、一年前に二人一組になって、伝道旅行に派遣された事があります。その時は、裸一貫で旅立つように送り出されましたその時のことを、思い出させて「何か足りない物がありましたか」。と。弟子たちはためらいもなく「ありませんでした」とこたえています。
今思えば、その時の経験は、今回イエスが彼らを残して十字架に死に行かれて、残された弟子たちは否応なく独り立ちして荒波の大海原に向かわなければならない。この時のための予行演習であったようです。今回は、その弟子たちに実の細やかに、「財布はあるか。袋はあるか・・・」と、指図されています。ご自分の受ける処刑のことをかえりみず・・、です。
イエスは天地万物の創造にもかかわられた神の御子です。それが実に、米びつの中まで開いて心配して下さる方だったのです。太宰治は「私は、神の存在は信じる。しかし、その神は愛の神でなく審きの神だ」と、聖書の中の慈愛に満ちた母のようなイエスを見いだすことなく自ら生命を絶っていきました。
たしかに、神の存在は多くの人に認められるところです。しかし、その神が、愛の神か、怒りの神かは、人間には知ることができません。
ただ、聖書を通して、イエスを通して、実に私たちの日常茶飯の必要を知って、いろいろ心をくだいて、必要に応じて、すべてのもを備えて下さる神であることを知ることができます!!
ここで「剣」も備えよ、いわれているが、これは霊的に激しい前線に出るために備えるようにとの象徴的な意味でありました