後になほどよきものが ヨハネ2;1~17
世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた」 ヨハネ2;9
ここには、「カナの婚礼」においてなされた、イエスの最初の奇蹟が記されています。すなわち、イエスは水を上等のぶどう酒に一瞬にして」変られたというのです。 聖書には「奇蹟」はたくさん録されています。それで、人は「キリストの教えは立派で、だれも文句のつけようがない。でも、この科学の時代に、水をぶどう酒に・・・・・」とは、信じられない、と、聖書を閉じてしまうか、奇蹟の部分だけ読み飛ばして、いわゆる教えだけを処世訓として利用しようとする人たちがいます。しかし、奇蹟を認めなければ、その教えは、高僧賢者が」語るところと何ら変わるところがなくなってしまいます。「数学の天才」パスカルは、奇蹟の行えないキリストなんてただの人といい「奇蹟に反対して、合理的に信じることは不可能である。」(パンセ815) キリストが奇蹟を行ったから神であり、救主であると信じることは最も合理的であると言うのです。
さて、水を甘いブドウ酒に変えられたわけですが、考えてみれば、私たちの周囲でも、畑や果樹園を見渡せば、天から降ってくる同じ雨が、甘酸っぱいブドウをつくり、また、甘い富有柿になり、みずみずしいでっかいスイカになりと、思えば奇蹟を見る思いになりませんか。同じ土に、同じ雨水でいろいろな見事な果物が、野菜が出来てくるのは、まさに自然の奇蹟ではありませんか。
イエスは、自然を創り治めたもう方であるゆえに、段階的な途中の過程を省略して必要に応じてぶどう酒を一瞬につくりだすことはそんなに難しいことではなかったはずです。奇蹟を行われたことは躓きではなく、むしろ、キリストは人となりたもうた、神であり、救主であられたことの有力な証拠であったのです。
聖書に戻ると、近隣の親族友人を集めて、一世一代の晴れ舞台で新郎新婦は、皆から祝福されてうたげの真っ最中に、その舞台裏では、肝心の「ぶどう酒」がなくなったという報せが裏方に告げられたのです。宴会の途中でぶどう酒がなくなったということは、貧しくて十分い用意が出来ていなかったことの露呈であり、それが皆に知られてしまえば新郎新婦の恥であり、末代まで語りつげられて行くことになったでしょう。
ここに、イエスは、新郎新婦の知らないところで、水をぶどう酒に奇蹟をもって変えられたのでした。それが、宴席に運ばれていくと、客人たちは口々に「だれでも、初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪のを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」と、ほめたたえたというのです。
人生も、初めは「金」「銀」「さんご」で飾り立ってられたものであって、やがて、終わりには「銅」と落ちぶれ、やがて「くず鉄」「粗大ゴミ」になって、人に邪魔者にされる人はいるのではありませんか。でも、生きるほど良くなる、生きるほどに恵みに溢れ、段々人生に「こく」を増していく!「水くさい」「どろくさい」から、甘露」と変えられていく人生。クリスチャンの人生は、段階的に聖化の恵みをうけて、日々に畏れ多くも神に近づけられていくものではありませんか。