都のために泣き ルカ 19;41~44
「イエスは泣いた」 ルカ19;41~44
イエスは泣いた、とあります。大人は滅多のことでは泣かない。
このときのイエスの「泣く」は忍び泣きでなく、声を出して泣く、慟哭するというものでした。
では、イエスは、どうして、誰のために声を上げて泣かれたのか。
41節に「都のために泣いた」と、ルカ福音書の著者ルカは記しています。 イエスの涙はご自分のためではなかったのです。ご自分は、あと数日後に惨い十字架の「パッション」が迫っていたのにです。それをイエスは十分予知しておられました。18章33節で、私を「むちで打ってから殺します。」と弟子たちに語っておられたのです。
そのために、人となられたイエスが涙しても誰もとがめはしないはずです。ところが、イエスはご自分のためにではなかったのです。
「都エルサレムのために」慟哭されたのです。たしかに、当時の神殿はヘロデが半世紀かけ、石灰岩で造られた神殿は遠くから見ると太陽の光線をうけてみごとに輝き映えていたという。ところが、イエスの目にはやがて、その豪華絢爛たる神殿が完膚なきまでに破壊滅亡のときが迫っていることに泣いておられたのです。42~44節参照。エルサレムの町はイエスがおっしゃってから40年後にローマ軍に徹底的に破壊されました。「一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が・・・」やってくるとのイエスの預言は文字通りに、歴史的に起こったのです。それは、神が遣わされたメシヤ・救世主を信じず、侮辱し、いま十字架にはりつけにとたくらむ偽善宗教家やイエスの後に野次馬の如くに集まる無節操な群衆のために、彼等の「滅び」を憐れみ、愛しんでの涙だったのです。彼等が滅ぶのは自業自得、因果応報、身方出たさびで、イエスさまが涙されなくともよかったのです。彼等が罪を悔い改めてイエスをメシヤとして受け入れれば滅亡から免れる道はあったはずです。しかし、彼らは、自ら地獄への道を駆け落ちていく・・・なんにも知らずして、いや知ろうともせず滅びへ・・・。イエスさまの責任ではありませんのに、イエスは、その忘恩無恥な烏合の衆のために慟哭されたというのです。
今日も不信仰者の末路はには確実な滅び、永遠の死がせまっているのに、それを知ろうともせず、救い主イエスに心から感謝して従うことを拒み、平然と教会に集まる烏合の衆はいないか。イエス様はそんな者たちのために慟哭して、愛しんでおられるのではないか。