飼い葉おけの赤子イエス ルカ2;2~7
「それで、布にくるんで、飼葉おけにねかせた。」 ルカ2:7
「飼葉おけにねかせた」、これがクリスマスの主人公のイエスの誕生の記録です。
『修行本起経』というお経には、シャカが生まれたとき、七歩歩いて手を掲げて「天上天下唯我独尊」といったと伝え、その時、龍が香湯を雨降らし、天からは香と花が舞い降りて、諸天が天蓋を童子にかけたとも伝えています。
それに比べて、キリストの誕生は、飼い葉おけの中におむつに包まれた、ごくごく普通の赤ん坊としてお生まれになったと聖書は伝えているのです。
これを記録したルカは、イエスの母マリヤに、いわゆる取材をしたでしょう。「マリヤさん。イエスさまがお生まれになったとき、何か驚くような異変が起こりましたか。何か後光がさしていたとか、空の雲が金色に輝いたとか」。それに、答えるマリヤは迷惑顔で「いいえ、何もありませんでした。」と。
でも、ルカはイエスの一生記を書いていくうちに、あまりの「素寒貧」のクリスマス物語に手をふるわせながら書きしるしたのでしょう。でも、キリストの生涯を見れば、罪人や盲人、遊女、物乞いなどの友として、いつも行動され、最後は十字架にかかって「極悪人」のように死にいたったイエス。その誕生を納得しながら書いたのでしょう。 でも、使徒パウロはその理由を次のように告白しています。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考 えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字 架の死にまでも従われたのです。」 ピリピ人への手紙2章6~8節
イエスはメシア救世主として、神でありながら 人となって地上にこられたのです。パウロは「人間と同じように」と、言いますが、「いいえ、イエスさまは、人間以下の状態で地上に来て下さったのではありませんか」と言わざるをえません。
このことは、人間が自分の貧しさ、罪まみれの状態に気づかず、上を、高きを、大きいもの、偉い者・・・が価値あるものと思いこんでいるとき、神は、低きところに、人の目から隠れたところに、神のたしかなる存在があることを知らしめること。あるいは、私たちのような不信仰な者でも恐れることなく、神に近づけるように、神ご自身が
低くなって地上に来て下さったこと。だから、クリスマスのイエスは普通の赤子でよかったのです。でも、メシアに間違いありませんでした。赤子のイエスを初めてダッコしたのは貧しい羊飼いでした。