靴の紐を解く足らず ヨハネ1:14~28
「それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしは、その人のくつの ひもを解く値うちもない」。 ヨハネ1-27
彼は、他の福音書によると、らくだの毛衣を着、いなごと野蜜を食べて、荒野に住んでいました。その風貌や推してしるべし。身体強健な野人でした。徹底して都会風の虚栄や虚名に背を向けて容赦なく世の人々の堕落、不敬虔をあばき、神の審判をもって迫りました。その荒々しい審判の声は国中に響き<マルコ1:5> 王も震えました。民の中には「キリストでは」という声もあがりました。<ルカ5:15>
しかも、異様な風体、その強壮な身体から、王でも面罵する容赦ない審きの雷鳴を発する彼は、主イエス・キリストに対しては、「靴の紐を解く値うちも無い者」という、かくの如き心情の持ち主、謙虚の人だったのでした。
世に対し、人に対しては、剛健不屈、ヨハネは主イエスに対しては自己滅却、海底の砂の如く無となるのでした。私は、ただ荒野で叫ぶ声、水でバプテスマを授けるだけ。「その方の靴の紐を解く値うちもありません」、と。
人々が、あなたは、大予言者エリヤの再来ですか。あなたは、英雄モーセのような預言者ではありませんか。さらに、あなたは、ひょっとすると待望の救主キリスト自身では・・・。と、水を向けられながら、何のケレン味もなく、否、否、否、しからずと返上して、われは、ただ、荒野の声。あのお方の靴の紐を解く値うちもなき奴と、終始しました。
これを読んで誰か、これを恥じさる者ありやと、聞こえます。その清々さに打たれざる者ありやと聞こえます。
「あなたは、あの大予言者エリヤの再来では・・・・」と問われて「まぁ、そのような者よ。」と答え「あなたはモーセのような預言者では」と、問われて、「それに類する者」と答えて、「あなたはキリストでは・・・」と問われて「キリストの友よ」と答えることも出来たでしょう。人はほめられて悪い気はあない。そこで、鼻高々と「偉ぶる牧師」なきにしもあらず。
しかし、ヨハネに限って、そのような色気は一切見せず、キリストの靴の紐を解く値打ちもなき、一つの声、と言い切った!
自己を無視、自己滅却の人ヨハネ。
「彼は、やがて、登場するキリストから、女より生まれし者のうち、彼より大いなる者は、起こらざりき」<マタイ11:11>
と、賞賛されと、いわれています。
私たち「長老教会」はこの27節の「われそのくつのひもを解く値打ちもなし」
の一言に心を合わせ、この涼しさを心がけたいのです。そして、「あの方のこそ、キリスト、人となって来たり給うたことばなる神よ」
と、指さす教会でありたいのです。すべては「神のご栄光のために」。