裏切る者の手に ルカ22;21~23

「人の子を裏切るような人間はのろわれる。」   ルカ22:22
  最後の晩餐会で、何も知らない弟子たちは陽気にごちそうをほうばっていたのでしょう。そのとき、イエスは突然、旋風を巻き起こすような発言をされたのです。それは、この中にわたしを裏切る者がいる、というのでした。弟子たちの間に、青天の霹靂、激しい動揺が起こりました。その瞬間を、あのレオナルド・ダ・ビンチは「最後の晩餐」として描き残しています。画面の中央に両手をひろげる主イエス。その右手で肘を張って、睨んでいる裏切りのユダ。銀三十でイエスを売って何食わぬ顔のイスカリオテのユダ。それを囲んでうろうろして騒ぐ残りの十一使徒仲間。「誰だそれは・・・」「絶対俺じゃないぞ・・・」と、口々に叫んで立ったり、坐ったり・・・。
  さて、イエスは誰が裏切り者か知らなかったのでしょうか。そうではないでしょう。では、なぜ、ユダを名指しで糾弾されなかったのでしょうか。それは、ユダの悔い改めを、最後まで期待しての、イエスの配慮であったようです。もし、そうでなければ、憎しみと怒りをもって、弟子たちの真ん中に突き出して「この野郎が裏切り者だ。」「恩知らず者のユダだ」と。私たちなら、何と破廉恥な恩知らずめ」と、リンチにかけて、徹底的に懲らしめるところでしょう。
 けれども、イエスはこのユダを告発されませんでした。この期におよんでも、なお、ユダの自発的な悔い改めと望まれて、「人の子を裏切るような人間はのろわれますよ」と、最後に最後まで回心を待たれたイエス。
 このご配慮があって、今日の私たちは、いまも「聖徒たち」の仲間に加えられているのではありませんか。なぜなら、これまでだって、私たちは何度イエスを裏切るようなことをしてきたこか。人には知られていなくても、神とおのれ自身には心当たりがあるでしょう。 イエスは私たちの耳元でも「裏切る者は呪われますよ」と、ささやいてくださったことか。いまも、あるいは、今日、この時にも。

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