神よりの委託人生 ルカ20:9~19

  「あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」                                      ルカ20;14
  9月を迎えました。秋です。食欲をそそるブドウの季節です。
ところが、ここにキリストによって語られた「ぶどう園殺人事件」のたとえがあります。
 ことの始まりは、園の主人が農夫たちに「ブドウ園」を託して、旅に出たのです。そこで、収穫の季節になって、「収穫物」を受け取りに三人の使者を送ります。ところが、農夫たちは収穫の主人への分をも渡すどころか、三人の使者を、それぞれはずかしめ、袋だたきに、そして手傷を負わせて帰してしまったのです。
 この譬話、主人を神だとすると、使者は、昔の預言者であり、今日的には、教会の働き人、そして残酷な農夫は、いつの世にもいる私たち「罪人」の姿となるのでしょう。
 農夫たちの「農園」は、主人からの委託ものでした。決して自分のものではありませんでした。だから、その農園からの収穫は、まず感謝をもって、一番いいものをご主人に献納すべきであったのです。私たちの人生でも考えてみると、みんな「あずかり物」で、何一つ自分のものってないのではありませんか。健康、いのち、家庭、職場、自然の空気、水、環境などなど、みんな神から備えられている「天然もの」で、これだけ物を「人工」で作り出すことは不可能に近い、いやできるにしても莫大なコストがかかる、それをなんとタダでたくさん与えられ、それらは、すべては神からの「委託物」だったのではと思い気づくのです。
 私たちは、その恵みをどれほど自覚し、神に感謝をしているか、と問われます。この譬話の農夫たちのように、私たちは神の物ものを強奪する者になってはいないか。彼らは、委託され、生かされている分際を忘れてか「財産はこっちのものだ」と、神からの使者に危害を加えて、最後には「息子」を殺してしまいます。
 忍耐の神もついに、悪しき農夫を滅ぼし、農園も没収されてしまいます。私たちの人生も「無一物」になって死を迎えるときがくる。この世の強欲もあの世には通じない。 だから、神に生かされ、神よりの預かり物の中の人生を思い、神に感謝し神の分を神にお返しする生き方を学びとっていきたいものです。

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