祝福しながら ルカ24:50~53
「祝福しておられるうちに、彼らを離れて天に上げられた」
ルカ24:53
連続して学んできたルカ福音書も、いよいよ最後です。閉巻です。キリストの生涯を記録した福音書はマタイ、マルコ、ヨハネとわれらがルカ福音書が残されていますが、その中で、文章も内容も一番美しいと言われてきたルカをここに終えるのですが、そのルカ福音書がどのように終わるのか、読み進んできた 私たちに気になることろでした。
それは、簡潔なイエスの昇天記事でした。イエスは復活して40日間、多くの人に現れ、特にその間弟子たちの最後の訓練、心得、などを教えられていたようです。鈍感で、十字架の迫害を恐れ逃げ隠れしていた弟子たちも、最後になって「復活の主」とともにいた40日間で、弟子たちは見違えるように変えられていました。イエスが彼らを離れて天に帰られるというのに、52節を見ると「彼らは、非常に喜びを抱いてエルサレム(敵の牙城)に帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた」見事な変身ぶりです。復活されたイエスを目の当たりにして、文句なく神の力、何ものにも打ち勝つ事の出来る信仰を確信した姿ではありませんか。
イエスは50,51節を見ると感動的です。弟子たちと別れて天に帰られるというのに、二度までも彼らを祝福して行かれました。「両手をあげて・・・祝福しながら、彼らから離れていかれた」「祝福しながら・・・」今も私たちを祝福していて下さる姿勢のまま、彼らを離れて行かれた様に思えてなりません。
それは永久の別れでありませんでした。「あなたがたは心を騒がせないがよい。・・・・わたしはあなた方のために、私は場所を備えにいくのです。・・・あなたがたのために場所を備えたら、また来てあなたがたをわたしのもとに迎えます」(ヨハネ14;1~3)
パウロの言う「われらの国籍は天にあり」の信仰をいっそう強く確信した弟子たちの頼もしい姿を見る思いがします。
それにしても「天」に、昇っていかれる、「天」とは。地球の裏側から見れば正反対になるわけだし、今日宇宙写真が見られる時代になって、無限の空間に浮かぶ地球から「天」とは0いかなる方向にありや、と誰もが考えることでしょう。
使徒行伝を見ると、キリストの昇天に立ち会った弟子たちも「天」はいずくにありやと、目をこらして昇って行かれる先を見つめていたことでしょう。ところが、聖書は「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた」とあります。神は霊界を十分理解できない弟子たちが、必要以上の好奇心で「天界」の空想を広げないために「雲」で覆い隠されたとみるべきでしょう。天界・神の国は目に見える形ではないとイエスはおっしゃったことがあります。今も私たちには隠されたところで、「場所」が備わったら迎えに来て下さるとのお約束を信じ、その時を楽しみに「待つ」信仰を与えられたいと願っていきたいものです。