生まれ変わりの宗教 ヨハネ3:9~21
「どうして、そのようなこと(新しく生まれ変わる)がありうるでしょうか。」
ヨハネ 3;9
先週の続きですが、老練の宗教の指導者であるはずのニコデモが戸惑っています。「新しく生まれかわらなければ・・・。」と、イエスにいわれて。
日本にもたくさんの宗教がありますが、「生まれ変わらなければ・・・。」という宗教は聞いたことがありません。
多くの神社仏閣の門前には、御利益効能書きが、立てられています。「家相相談、パワー向上、商売繁盛、各種病気全快祈祷、子宝成就、合格祈願、良縁相談、ひきこもり改善祈願、姓名判断、その他各種お祓い。」 これは、インターネットで実際に見つけたある神社の「御利益メニュー」です。こういうのが宗教と思っている人には「生まれ変わり」の宗教は理解できないでしょう。また、宗教というと、難行苦行したり、多額の金銭を献金したりすることが宗教と思っておられる人も、「生まれ変わりの宗教」に度肝をぬかれ戸惑ってしまわれるでしょう。
なぜ、生まれ変わりの必要性を、聖書ではいうのでしょうか。
それは、人間の不幸の根元は心の中に潜む罪があるからだということです。その罪の解消に、外から水をかけ洗剤でこすたって消えるのではない。お祓い、然り、修行も然り、まして、心の罪を金銭で解決できるものではありません。どうしたら、こころの中に巣くう罪の禍いから脱出できるか。パウロは、罪と格闘して、絶望的な告白をしています。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」(ローマ書7:15)
そして、「ああ、この死のからだから救うものは誰ぞ」と悲鳴を上げているのです。
世には「性善説」なるものをとなえる人たちがいますが、聖書は全く、完全に「性悪説」の立場です。なぜなら、善いと知りながら、かえって、自らさえ憎むべき悪いことしか出来ない人間であるからです。
さて、このような人間は、どんなに努力しても神に近づくこと、救われることはできません。ある神学者は、人間は、生まれながら神に逆らって、「海賊船」に乗っているようだといっています。その中で、いかに模範的船員であれ、国家には反逆罪で死に値する罪人であるはずです。刑罰を免れるためには「海賊船」を脱出してこなければなりません。この橋渡しになって下さったのが、十字架にかかって、身代わりの死の刑罰を受けて下さり死んで下さったイエス・キリストです。キリストが用意して下さった救いの橋を渡ることを「イエスを信じる」ことに通じ、橋を渡って「新しい国家のもとに生きる」ことを、生まれ変わりと考えることが出来るのではないでしょうか。
ハワイ出身の高見山は、どう見たって外人です。でも、彼は日本に帰化して、いまは、渡辺 大五郎と日本人なっています。私たちもキリストを通して天国人として生まれ変わる事が出来るのです。キリストを信じた、パウロは「我らの国籍は天にあり」と、あの死のあがきから救われています。