最低の弟子たち ルカ22:24~30
「この中でだれが一番偉いだろうか」と、互いに議論し始めた。」 ルカ22;24
ときは、十字架の処刑を明日に控えた「最後の晩餐」席上で、イエスは、「この中に私を裏切る者がいる」と、沈痛な思いで語られた、その直後、弟子たちの間で「仲間争いが」が起こったという。目も当てられない最低の、バカな弟子どもの醜態です。
イエスが十字架で人類の贖いのため身代わりになって死んでいかれる。その後の初代教会つくりは彼らの信仰と働きに期待されていたのに「親のこころ、子知らず」というか。「どんな国でも・・・、どんな町でも、家でも内輪もめして争えば立ち行きません」<マタイ12:25>と、すでにイエスは、強く教えておられたのに、いまになって「仲間争い」を。イエスは重大な生命かをかけた使命に出立する直前に、将来のキリスト教会を背負って立つべく訓練を受けてきた十二使徒たちのテイタラク。私たちだって「弟子たちのバカ。しっかりせんか」怒鳴ってやりたくなるではありませんか。
でも、人ごとでない。私たちだって、機会があるたびに、「上座争い」「奴よりは俺の方が偉いはずなのに、人は俺を認めてくれない」と、こころの中で怪しげな炎を燃やしているのは、決して人ごとではありません。権力争いに加われるほどの実力があれば、少しは格好もつくのでしょうが、弟子たちを見て下さい。イエスに弟子として選ばれたとき、教養とか信心などにはほど遠い漁師や下級官吏ではなかったか。まさに、井戸の中の蛙、いや蟻ん子、いやゾウリ虫ごとき弟子どもの 「この中でだれが一番偉いだろうか」、なんと不似合いな議論なことよ、と、もう開いた口がふさがりません。
私たちも、この弟子たちの姿に自分を映し出し、その愚かさ、恥ずかしさを、しかと銘記しておきたいものです。
こんな弟子たちに、イエスはどうされたか。あきれて愛想を尽かして、弟子たちを投げ出したか。いや、いや、いや、この期に及んでなお彼ら愚弟子たちに教え諭しておられるのです。26節「治める人は仕える人になりまさい。」と。さらに圧巻は、イエスは「食卓につく人と給仕する人とどちらが偉いのか。もちろん、食卓につく人」と、言いながら、なんと「私はあなたがたのうちにあって給仕するもの」になって、弟子たちの足まで洗われているのです。木偶の坊のような弟子たちに貴重な実物教育をされているのです。有り難い、勿体ない、あんな 弟子どもに。このイエス様あって今日の私どももあるのです。