日本は寛容で? 茄子作 九
嘉禄三年(AD一二二七)といえば、法然が死んで十五年後のことなのに、彼の墓堂は、これを憎む鞍山の僧徒らによって敬却されました。
もっとも、遺骸の方は、あやうく弟子らによって嵯峨へ移され、ついには西山に運ばれて火葬にふされました。いわゆる〝嘉禄の法難″でした。
さて、このことは近頃の俗論をまっこうから打破しています。いわく「日本は寛容である」「日本の宗教は他の宗教を排斥しない。」、「日本には宗教の争いはない」「日本には正統・異端の争いはない」などなど。
それに対して、「あちら西洋では」、「キリスト教は」と指さしてはシタリ顔の評論家や先生がた-。とんでもありません。日本の宗教史は激しい論争、正統・、異端の権力闘争、政撃合体しての宗教戦争でいろどられているのです。それも同じ宗教内部での。
それ忘れてか、見ないでか、「日本は寛容で」、、「日本の宗教は包容的で」と、いい気なサエズリは認められません。飛鳥時代は物部・蘇我の宗教戦争、平安時代の最澄・空海の絶交、鎌倉時代の弾圧・法難、きらには切支丹に対するあの残虐行為は「日本が寛容で」、「日本の宗教は包容的で」といった太平楽を粉砕しています。