怪我の功名 ルカ23;26
「この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。」 ルカ23:26
イエスは、十字架を背負って、刑場となっているゴルゴタの丘まで、ローマ兵に追い立てられていました。昨夜来の拷問で体力は、疲労困憊、足をふらつかせながらの難行。
今も、エルサレムに旅行に行くと、イエスが十字架を担いで歩かれたという狭い路地が「ドロロサ」と名づけられて残っています。このせまい道に死刑囚が十字架を背負ってのっそりのっそり歩いていくのですから、野次馬たちでごったかえしていたことでしょう。
その中に、エルサレムか1200キロも離れたアフリカのクレネという町から巡礼に来ていた「シモン」という男がいました。
突然、ローマ兵から「おいっ。お前。田舎者の黒いの」と声がかかるや、ムリヤリにイエスの「十字架を代わりに担いだやれ」と、言われたのです。青天の霹靂、頭の中は真っ白。「ああ、恐ろしい。死刑囚の血のついた十字架なんて」と、ふるえあがったことでしょう。一世一代の恥辱、家門の汚れ・・・。半べそをかきながら必死に抵抗したが、相手は泣く子も黙るローマの将兵。ムリヤリに背負わされることになった。
ところが、あとになって自分が背負った十字架がメシヤ。救世主キリストの十字架であったことを知って、彼は二度びっくりします。
この、ふとした「大不幸」と思われることが、やがて、一家のクリスチャンになり、天国人としていただくきっかけになることは、私たちの中にも経験されるところではありませんか。瓢箪からコマ、怪我の功名ということでしょうか。 シモンは史上唯一人、キリストの十字架を代わりに背負ったなんて。