怒れるキリスト ルカ19:45~48

 「宮に入られたイエスは、商売人たちを追い出し始め・・・。」
                                 ルカ19;45~48
 神聖な神殿が悪徳商人の巣、いやイエスは「強盗の巣」と見て怒り爆発です。それが如何に激しいものであったかは、その結果、宮の管理者であった祭司長や律法学者どもが「イエスを殺そうねらって・・。」と、決意させるほどのものでした。イエスの怒りが如何に激しいものであったかがわかります。
 阿弥陀像はいつもほほえんでいて、怒らない。しかし、イエスは人格神であるゆえ悪に対して厳しく怒られる神です。
 神は愛であることも事実、しかし神にはもう一つの怒りの顔を持っていらっしゃることを忘れてはなりません。
 ところが、今日の教会は「温和な人たちの集まり」「オトナシイ」「柔和な」「優しい」などなど・・、と世間の人たちにイメージされているようです。これはこれで教会の立派な伝統であり遺産でもありましょう。
 しかし、イエスは、神殿の境内が「強盗の巣」になっていることに対して怒っておられる。宗教を利用してショバ代を稼ぎ、インチキ商人の跋扈を見て見ぬしている「宗教屋」さんたち。
 今日の教会はどうでしょう。神聖、純潔。塩、光をたもっているのでしょうか。さすが教会の中で「両替」「悪徳商人」に出入りはないでしょう。でも、教会が社交場になって、説教が終われば、すぐ世俗的な話題で花盛り、富裕な人、社会的に地位のある人 などがのさばって、一週間社会の底辺で苦労して、やっと教会にたどり着いたといった「子羊たち」が、ほったらかしになっているようなことはないだろうか。ないとは言えないでしょう。
 私は、かつて教会の古参の意見を聞き入れなかったとき「私を怒らせる教会会計に影響してくるよ」と、言われ唖然としたことがあります。こんなことは、ないにしても教会で非信仰的、世俗的で、信仰的にはっきり間違っていることに対して、今日の教会は「汝よろしからず」と。ときには、イエスのようにムチ振り上げて、教会の純潔を守るために声を上げなければならないときがあるはずです。
  クリスチャンは自分のことに関しては寛容と忍耐を持って、人に接し「怒りに遅い」人でありたい。しかし、神の御名が、キリストの御名が汚されるようなときには「怒り」義憤に燃え上がることのできるクリスチャンでありたいものです。
  「神の御子を踏みつけ・・・・、恵みの御霊を侮る者は、、どんなに重い処罰に価するかを、考えてみなさい」ヘブル10:29

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