大言壮語 ルカ22:31~34
「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死にいたろうと・・・」 ルカ22:33
引きつづき最後の晩餐の席上です。明日、イエスは十字架で罪人の身代わりの死を遂げようとするとき、肝心の弟子たちは猿山のモンキーたちのように権力争いをしていました。おそらく、その中で一番はしゃいでいたのがペテロではないかと思われます。
イエスは、このペテロに「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいのかけようとしている」。これはサタンがキリストの人類救済事業を失敗させようとのたくらみを、イエスは見ぬいておられたのでしょう。すでにユダはサタンに陥落されていた。つぎは「シモン。お前さんが危ない」と警告をされたのです。
ところが、調子のいいペテロは、「なにをおっしゃるイエスさま。」「私は、あなたとごしっしょなら牢でも死でもどこまでもついて行きますよ」さすが、ペテロ見上げたものよ、と言いたいところですが、この数時間後に、舌の根の乾かぬうちに、ペテロはイエスを三度まで「そんな奴はわしゃ知らん」と裏切っているのです。
人間の決意とか信念などいうものは、こんなものではありませんか。私たちだって、人には公言してなくとも、何度も「少しはましな人間になろう。」と、心に決意をしてきたことか。それを裏切ってきたのは、他ならぬ自分の意志の弱さ、自分の言葉にも責任のとれない、なんとも情けない人間ではと、幻滅させられてきたことか。。
私などがクリスチャンになっておのれの弱さ、脆さを知らされてからは、くれぐれも大言壮語は警戒すべきと知らされています。
こんな意志も弱く、責任ある人生を走り抜くことなど不可能と、いまは、「神よ。わが人生を誤りなく、横道にそれることのないように、守り導きください」と、祈らざるをえない人生に変えられました。
パウロも、そんな弱さを経験したのでしょうか。でも、人生に絶望することなく告白します。「すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」<ローマ3:4>
自分の信じられないものが、ひとを信じることはもっと難しい。でも、私たちは「真実な方」を信じられる幸いを感謝。