光りが世にきたのに ヨハネ1:1~13
「この方はいのちがあった。このいのちは人のひかりであった。」
ヨハネ1;4
ヨハネ流の「クリスマス」、キリストの誕生は、先週は「ことば」と、して来られたと読みました、きょうは「光」として世に来られたキリストのお話です。 なぜ、キリストの誕生が「光」の出現と表現されたのか。
それは、5節に「光は闇に輝いている」と、あるように、神が人となって世にこられたとは、世は、暗かった。闇だった。その中に、キリスト来たたって「闇に輝いている」と、大きな、全世界を照らす巨大な「光」として世に来られたというのです。
ヨハネは100才近くまで生きて、この福音書を書いています。彼が見た人生は、世の中は、生きていく苦しみ、病んで苦死んでいる人、老いて介護もされずに痛みを引きずっている人、そして、死んでいく人、いわゆる、生老病死の人の世の暗闇を多く見てきたのでしょう。
さらに、ヨハネが生きたローマ時代は、パクス・ローマナと言われるように戦争は終結して、一見平和の時代に見えていた。しかし、平和に退屈し、心の平安を失った市民は、巨大なコロシアムを築き、何万という群衆が集まって猛獣と猛獣と戦わせ、血のにおい酔いしれていた。それでも、物足りなく、ついには、競技場の中に池を造り、実戦さながらの海戦を行わせ、人間の剣士同士の一騎打ちで人が死に、殺されいくのを観て狂気していたともいわれています。
そんな中に、心ある一部の人々の間には、このままでは世界は滅亡する、だから、世界的な救世主の到来が待たれていたという。このような暗黒世界に突入して来られたキリストの教えが、迫害を受けながらも、あの強力な軍事大国ローマを、根底からひっくり返し、
愛と正義のキリスト教国家に変えられていったことは歴史書の記すところです。
それから、2000年たって、現代の日本は、ヨハネの目になんと映ることでしょう。
いまや世界中が100年に一度の大恐慌に巻き込まれ、一見華やかに見える、文明文化も
何か昔のローマのコロシアムの残骸を見るおもいで、やっぱっり人心には平穏を幸せを与えるにはほど遠いように見えてきます。大量の餓死者、戦争による無惨な犠牲者、自殺者の増加、これは、頂点に到達した文明の末路でなないか。「救世主」は、人の世から、下からは
現れなかった。「光」は上から、神から遣わされない限り、ヨハネの時代も現代も変わりないようです。
「暗さ」の中に、残念ながら「暗さ」は判らない。光あって初めて、本当の暗さを知る。
神からの光は、人間の「暗闇」の部分に照射されると、人はともかく、自分の心の欠陥、わが身の穢れ、など心の底まで照らし出される己れの姿に唖然とさせられるのです。人の目には立派、豪華が、神の「「光」に映ると偽善、虚栄、虚飾、好色、どん欲・・・と、思わず目を覆いたくなる真相が暴露されてくるのです。
イエスはおっしゃっている「わたしは世に来た。わたしを信じる者は、誰もやみの中みとどまりまることのないために・・・・・。」と。 <ヨハネ12:46>