他山の石 「正宗の脇差」 茄子作 九
東北の雄・伊達政宗(だてまきむね)は、いわゆる譜代(ふだい)大名ではありませんでし元が、徳川家庶・秀忠・家光の三代に仕えて勲功がありました。
もともと、政宗は大太刀を差していましたが、三代将軍家光に召された時、その長脇差しを腰からはずし置いて進み出ました。これを見て家光は「差したままでよい。」。老年のことではあるし、お前がどんな心を抱いていかは知らぬが、私は少しも気づかいなどしておらぬ。さあ太刀を差したままでないと、盃をとらせぬ」と、たわむれました。
それを聞くと、政宗は感涙にむせび、これまで二代さまには身命を投げうってお仕え申しあげましたが、今の三代さまには、これという忠勤の覚えもございませぬのに、かくまで有難い御恩顧をたまわりますことは死んでも忘れませぬと、そのまま酩酊し、前後も知らず、いびきをかいて寝入ってしまいました。
その間、近習の者が、熟眠している正宗のかたわらに脱ぎおかれ
ていた大太刀を、ひそかに引き抜いて見れば、中身はなんと木刀で
造られていたのでした。
聖書でも、猜疑と嫉妬に狂うサウル王にねらわれた悲劇の名将ダ
ビデは、エン・ゲディの荒野に追いつめられ、そのほら穴に息をひそめましたが、そこへ入って来たサウル王の上着のすそを一片、ひそかに切り取りました。
やがて、サウル王がほら穴を出て行った時、ダビデは後から「王よ」と呼びかけ、地にひれ伏すとその一片をかかげて、自分に逆心のないことを証しました。
さしものサウル王も、それを見ると、「わが子ダビデよ」と呼びおのれ非を告白し、声をぁげて泣きじゃくりました。〈サムエル第一24章〉
東西を問わぬ、きびしい時代の身の証の切なさのひとこまです。