他山の石 「いろは歌と聖書」 21 茄子作 九
イロハ歌が空海作のものでないことは、今日しられるところとなっていますが、なにも空海でなくても出来るという例は、一九〇三(明治三十六)年に「万朝報』新聞で一等当選した次の作品でもわかりましょ
とりなくこゑす ゆめさませ
(鳥鳴く声す 夢きませ)
みよあけわたる ひんがしを
(見よ明けわたる 東を)
そらいろはえておきつへに
(空色映えて沖つ辺に)
はふねむれゐぬ もやのうち
(帆舟群れ居ぬ もやのうち)
今様詞に「ん」も入れて完壁
です。
このほかには、イロハを和歌の頭と尾によみ込んで、連作という試みもあります。
あらさじと打ち返すらしを山田の苗代水にぬれて作るあ
めも遙かに雪間も青くなりにけり
今こそ野辺に若菜摘みてめ
つくば山 咲ける桜の匂ひをば入りて折らねどよそながら見つ
それぞれ頭尾に「あ」、「め」、「つ」をよみ込み、これを通すと「あめ、つち、ほし、そら、やま、かは」となって行く趣向です。平安中期の才人・源 順(みなもとの・したごう)の作です。
もっとも、このこころみはすでに聖書にありました!詩篇一一九篇が、それです。
幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。そのさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。
以下、各八節ヅツヘプル語のイロバを各行の頭によみこんで、
堂々一七六節、二十二段の大長編。しかも、テーマは〝神のことば″で終始一貫とは、さすがは聖書のイロバ歌というところでした。
それも、第一段は「幸いなことよ」と若々しいマーチ風で始まり、第二十二段のしめくくりは「私は滅びる羊」と、「わび」、「さび」でおさめたところなど、たまりません。