人の目と神の目 ルカ1:1~23志賀キリスト教会・松田慎人長老
私たちは、物であれ人であれ、失って初めてその大切さを気付くことがあります。ルカ15章11節からの放蕩息子の喩えは、その典型的な例といえましょう。弟は財を失って、はじめて人の世のつめたさと、父(神)と一緒にいたときの幸せに気付いたのでしたが、兄の方はまだこの父(神)と共にいることの素晴らしさに気付いていないのです。
人の目から見ると、身勝手な弟に対する兄の言動は、この世の大方の人がごく普通に抱く感情で、一方的にこの兄を、ある注解書が言うように、父に長年忠実に仕えたのは、義務からであって愛からではなかったとか、また同情心が全く欠けているとか、陰険な精神の持ち主であったとかの理由をもって責める気にはなれません。
人の目から見ると、聖書には不可解と思える箇所がいくつか目につきます。ここでの話しもそうですが、またマタイの福音書にある、ぶどう園働く労務者の話(マタイ20;1-16)などもそうです。特にこの労務者の話などは、この世の論理で、経営者対労働者という形にしますと、とうてい受け入れられない話であり、何かと物議をかもすことは明らかです。
今、あなたの立ちどころは何処でしょうか?
弟の側ですか、兄のほうですか。あるいは先に働きに出かけた労務者ですか、それとも最後にやっと雇ってもらえた労務者の側でしょうか。
今あなたが、どこに立ってこれらの箇所を読むかによって、これらの喩えは意味が違ってくることを知るはずです。人の目から見て、釈然としないこれらの出来事が、神さまの目から見ると、ここでは、「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」となり、労務者の喩えでは「ただ私としては、
この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」となるのです。
私たちが社会生活を営むことは、私たちの横の関係である他者と一緒に生活することに他
なりません。しかし、この横の関係は、自ずと自分と他(相手)という比較を生じます。また、この比較は、たえず相手を意識して暮らすことを強いたりもします。これが人の目です。ですが、この横の関係は、私たちに究極の平安をもたらしてくれるものではありません。なぜなら、比較には究極もの絶対的なものが「ない」からです。
この兄がひとたび、その目を上に向け(この場合、弟という横の関係から、神様の縦の関係に目を転ずる)神さまを見上げれば、そこには、この自分を、掛け替えのない者として、その存在を喜び(イザヤ43:3)、慈しんでおられる神さまの視線を見いだす事が出来たのではなかったでしょうか。
私たちは、「おまえといつもいっしょにいる」との言葉に、改めてキリスト者として、神さまを知っていることの幸せを味わいたいと思います。