「ことば」は人となってヨハネ1:1~18
「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」
ヨハネ福音書1:14
この「ことば」が何を意味しているかは、1節で「ことば」は「神であった」と明言されています。この「ヨハネ」」に、クリスマスのマリヤも、飼い葉桶も羊飼いも、東方の博士らは登場しません。でも、この「ヨハネ」の書き出しは、彼独特のクリスマス物語だったのです。なぜなら、「ことば」は神でり、その「ことば」が「私たちの間に住まわれた」というのは天地万物の創造にも参加された三位一体の子なる神が人となって世に来られたことをヨハネ流に伝えているのです。
キリストは、神からのメッセンジャーであり、スポークスマンでもあったのです。
なぜ、、天地万物の創造者なる全知全能の神が人となってくる必要があったかを考えて下さい。
聞いた話ですが、中国のある詩人が考え込んで道を歩いているとき、蟻塚につまずき、蟻は住まいを襲われたと大騒動になったそうです。一斉に、その詩人を憎き敵と攻撃をしてくる。そこで、優しい詩人は「すまなかった。悪気はなかったのだ」といくら蟻軍団に語りかけても通じません。
その時、突然、詩人は「判ったぞ。理解できた!」と叫びだしたというのです。
かれは、実は、キリスト教の、神が人の形をとって世に来られたと言うことを聞いていたのですが、それが判らなかった。あの大銀河宇宙を造られ全能の神が、人になって世に来られるということに疑問をもって居たというのです。
そこで、今回の蟻の件で、いくら自分の方には敵意が無いことを人間の言葉でいくら訴えても理解されなかったが、それを理解してもらうためには、人間が蟻になって蟻の言葉で話しかけなければならないと、と気づくのでした。
しかし、詩人がいくら考えても蟻になって語りかけることなどできません。
まして「神」が人となるなんて、さらに、不可能で、あり得ないと、思われた。
ところが、ところが、その神が人間の言葉で語り聞かせて下さる「ことば」として世にきてくださったのです。
でも自然は、神の作品です。その作品を通して、神の存在、全能、全知であられることは、人類の多くは認めている。日本でも「わたしは神の存在は否定しない。でも、何もキリスト教でなくてもいいでしょう。」と言われる人がいます。
でも、神の存在に気づいたとしても、その神が、人間に何を求めておられるか、、神は人間に、はたして好意的であろうかは、<自然>からでは判りません。現に太宰治は「わたしは神は信じる。しかし、その神は愛の神ではない。怒りの審きの神だと、いって、自ら生命を絶っています。「ことば」としてこられたキリストは明確に「神は愛であり、罪を悔い改めてくるものには永遠の生命が与えられる」と、私たちに判る人間の言葉で語り教えてくださった。そのために神は「ことば」となってわれらの世に住まわれたのでした。